所属合唱団の公演が終わる
都内の合唱団に所属している。
オーケストラとのコラボレーションでの公演を終えた。
素晴らしい曲に出会えてその歌を自分の中に取り込んで演奏出来たことに
あらためて幸せを感じる。
偉大な作曲家の作品を、今は割と簡単に聴くことができるし、
音質にこだわりたいなら、然るべき方法もあるのだろう。
でも、「聴く」のはあくまで外側から。
「歌う」と曲の細部のすばらしさを、身体の中から再現して、その音を
オーケストラの音色と同時に楽しむことが出来て、本当にさらに素晴らしい
鑑賞体験ができるのだ。曲を味わう、を通り越して、「曲を食する」、みたいな
感覚であろうか。
こんなにも素晴らしいたくさんの合唱曲が次から次へと目の前に現れる至福。
これからもさらに、曲へのリスペクトを忘れないようにしよう。曲を聴いて感動した気持ちを、自分の声で再現させて頂く、と言う姿勢を忘れないようにしたい。
曲の解釈はその人の感動の数だけ違うのだから、歌声もそれぞれの表現があっていいと私は思う。レガートで歌うとか、高音と低音で音色が変わらないとか、息を吐く動作に声を乗せるとか、喉を下げて横隔膜を太鼓のように張り横隔膜の上にある空間を張り続けるとか、しぼんでしまった息では声を出さないとか、下顎の存在を忘れるとか、喉をさげつつ軟口蓋をあげるという相反する動作をして喉の空間を最大限にあけるとか、
練習していても、本番は曲の進みのパワーに飲まれてしがいがち。
自分の持っている技を使い切って、「わたしの声を聴かせる」のではなく「この曲のすばらしさを最大限表現する」という心構えを忘れないようにしよう。
ちなみにPのところ。「ピアノで歌えピアノで歌え」との古株諸兄のご指摘。よくわかります、言いたい事は。だけどね。Pってたとえばレクイエム系のPと現代楽曲のPとは違うと思うのですよ。音色も違うしもちろん音量も。音階とちがってPやPPには「絶対的、客観的」な「音量」があるわけではない。曲によって同じPでも大きさは違うし、団員一人一人の解釈によって音質も違う。ホールの響き具合によっても出すべき音量はちがってくることだろう。一人一人の音質や音量の違いをまとめ上げ、ホールの響きを計算にいれて、最終的に音楽を「創る」のは指揮者の仕事。作曲者の作品を最終的な解釈で演奏するのは指揮者の権限だって思う。個人の解釈や感動を超えて、まとめ上げて、ホールの中でどう聞こえるか、どう聞こえて欲しいかを技化する職人技が指揮者にあるからこそ、指揮者なのだって思う。もっと作曲者を、指揮者を信頼して、その日のその場限りの音を「感じて」演奏に乗りたいと思う。それには楽譜の読み込み、十分に自分が曲に入り込むことが出来るほどの余裕を持つための暗譜、体力、集中力、ゲネでもなくリハでもなく、本番に再考のパフォーマンスができるような調整力とかリラックスと強い気持ちのバランスなどが必要。
まったくすごい機会をもらっているな、って思う。
SDGsは百害あって一利なし
最近気になる記事が三つあります。
1つ、人類が「人新世」の時代に突入、
2つ、地球上の人工物と生物の総重量が並び、最多はコンクリートで人工物は年300トン増加、2021年中にも上回る可能性、
3つ、昨年12月に「労働者協同組合法」が成立し、欧米でも社会主義が望ましいと考える若者が増えている、と言う件。
27年前子供を授かって初めて生活者となってから、家庭の、台所の小さい窓から社会の変化を見てきました。バブルの好景気を経験し、いざ家庭に入って今でいうところの「ワンオペ」育児をやってみると会社と自宅との往復では見えなかった事に毎日気づくのです。
なぜ、家族そろって夕飯が食べられず、夫は夜中まで仕事をしているんだろうか。毎年のように夏が耐え難く暑くなるのは大丈夫なのだろうか。毎日普通に生きているだけで、行く末が心配になるほどのゴミが出るのはほおっておいていいのだろうか。
在宅勤務でもお弁当
コロナ禍がもたらしたもの、在宅で仕事をしたり、趣味のために学んだり、その準備をしたり、と家で大抵のことができるようになった。
気分転換にランチに出ることもあるけれど、大抵は娘のためのお弁当と一緒に、自分の分も詰めてしまう。午前中にある程度作業に目処がついている時は、ご苦労さま気分も多少はあって、ランチに出るのも良い。そのまま、午後の活動に出発もしやすい。
作業が軌道に乗っている時や、午後にも作業や仕事が長引きそうな時、私はそこでランチを作り始める気が起きず、適当なもので済ませてしまい、なんだか物足りない感じがして、作業効率が落ちてしまうのだ。さっと取り出してパッと済ませても、それなりに充実感があって、お弁当は自分に良いことをした気になるからおすすめ。最近のランチは高いし。
かのブラームスは、公職を退くと、朝は早朝五時位から創作に入って、午前中それに没頭し、午後はゆっくりランチしてから、散歩や図書館など、充電に充てていたとか。理想的だ。朝食抜きは出来ないし、朝の家事もあるから真似するのは無理だが、仕事や作業は午前中に集中して、午後は気の向くままに過ごせたら。こんな一日の使い方って中年から老年期の特典だと思う。午前は充実の個人作業、午後は社交や充電。人生の秋はそんなふうに過ごしたい。
在宅勤務でもお弁当
コロナ禍がもたらしたもの、在宅で仕事をしたり、趣味のために学んだり、その準備をしたり、と家で大抵のことができるようになった。
気分転換にランチに出ることもあるけれど、大抵は娘のためのお弁当と一緒に、自分の分も詰めてしまう。午前中にある程度作業に目処がついている時は、ご苦労さま気分も多少はあって、ランチに出るのも良い。そのまま、午後の活動に出発もしやすい。
作業が軌道に乗っている時、けれど午後にも作業や仕事が長引きそうな時、私はそこでランチを作り始める気が起きず、適当なもので済ませてしまい、なんだか物足りない感じがして、作
民主主義は地方の自由な自治から
最近のニュースで地方の首長の発言に注目している。
「マイナンバー制度とは、人を12桁の個体識別番号で管理し、服従する人間を作る全体主義だ。牛は10桁。人間の牛化だ。」
災害などの非常事態なら国は個別法に規定がなくても自治体に対策実施を指示できる、地方自治法の改正案について、世田谷区は新型コロナウイルスの流行初期、国が無症状の国民へのPCR検査に慎重だったのに対し、積極的な検査体制を確保した。そのことについて、
「自治体が一歩先んじ、国も追認し、知恵を出し合ったのがコロナ対策だった。混乱時に国が常に正しい判断をするとは限らない。統治型の上位下達の国家、統治機構に変える考え方は危機的だ。」
世田谷区 保坂展人区長
静岡県はリニア工事によって南アルプス上流でトンネルの建設時に発生する湧水により、60万人分の生活用水が減る問題について、全量を戻すよう水道局やJRに注文を付けてきた。希少動物の保全についても同様に言及、「南アルプスの自然を守れるか、水資源を確保できるかずっとやってきた。水の問題は取り返しがつかない。」
川勝知事は差別発言で辞職したが、ことリニアに関しては岸田首相と自民党が「国家的プロジェクト」と半ば強引に進める中、建設地の住民の利害を真剣に代弁し、地方自治の独立性を主張した、真っ当な采配であったと思う。
沖縄の辺野古基地移設問題についても、玉城デニー知事が再三にわたって、沖縄県民の意思を無視する中央のやり方に、県民の意思を尊重するよう、正統な主張を繰り返しているが、地方自治体の首長が県民にとって不利益になる国策に、断固反対の意見を発しなくなれば、国全体が均一化し、地方から異論が言えない国になる。それはとりもなおさず、民主主義が消滅するという事だ。
地方自治体の首長は上記三氏のように、今後も遠慮なく国の愚策に意見をするべきだ。国は中央が作るものではなく、地方自治の集まりが国を形成しているのだという見方を国民が共有すべきだ。
第8回横浜トリエンナーレを観にみなとみらいへ
久しぶりの現代アート鑑賞。
現代アートが必然的にもつ「現代社会性」とでも言おうか、心が揺さぶられる作品が多かった。
中でも一押しは映像作品。社会主義下のハンガリーで、とある健康な青年が日課の筋肉トレーニングに精を出すシーンから始まる。次第に哲学書の音読をしながら思索を深め、合間に青年らしい健康的な食欲のままに食事をとる場面が挟まれる。さらに思考は深みを増し、彼は落ち着きをなくしてゆく。そしてついにどこかで拾ってきたぼろぼろの「宝物」のぬいぐるみを抱きしめて、子供のように泣き始める。それは彼にとって「ライナスの毛布」。
理性で自分を社会の枠に、思想、あるいは宗教の枠にはめて、普段人は生きて行くけれど、本質は答えのない底なしの不安とともにある。汚れて傷ついた可哀想なぬいぐるみは、壮健そうにしか見えない若く健康な彼の、一番柔らかい深層にある姿なのだ、とこの映像は雄弁に語っている。
自分が表現したいものや事が、形になって見る人の心を揺さぶるものが芸術だ、といたく感動した。トリエンナーレの鑑賞という刺激が心地よい一日だった。
芸術家居宅探訪「徳富盧花」
画家や文学者などの住居後を訪ねるのが大好きだ。作家本人の作品を見るのも好きだが、彼らがどんな空間で作品を創っていたのかを見るのは誠に興味深い。使っていた道具類、絵の具、アトリエ。生活の場や、時には庭なども、往年の作家がただずんでいるように感じられて、時空を超えた想像の旅に誘われてしまうのだ。芸術家以外にも、歴史人物の邸宅跡なども、本来同時代を生きていたらお招きにあずかることはないから、豪華なインテリアや歴史的装飾を見せてもらえると、とても得をした気分に浸れる。住まいや建築に興味があるからでもある。作品、作品を生み出した芸術家の息吹、建築そのもの、という様々な興味を一度に満足させてくれるのが「芸術家居宅探訪」なのだ。どんな有名人であっても、何人も、まずは住まいがあって、そこを拠点としてしっかりと生きていたのだ、という原点を感じられる。さあ、自分も地に足をつけて、これから我が家に帰り、日々の暮らしを創造的に暮らそう、と励まされる。
さて、これままで訪れてきた住居を、記録していなくて残念なのだが、記憶を頼りに上げてみよう。
⭐︎徳富蘆花記念文学館(世田谷区)
⭐︎岡本太郎記念館
⭐︎佐伯祐三アトリエ記念館
⭐︎中村彝アトリエ記念館
https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/tsune/40357/
⭐︎山本有三記念館
⭐︎吉川英治記念館
⭐︎太田黒元雄邸
以上は今まで訪ねた箇所の一部だ。
作家や芸術家の自邸跡を訪ねると、絵を描く技法の参考になるなどとは恐れ多いが、マンネリ化した我が筆、我が意欲に火をつけてもらう事ができる。また、代表作を読んだりすると滅法楽しい。今は蘆花恒春園に行った影響で代表作の「不如帰」を読み終わり、候文の難しさに初めて触れながらも、同時代の人が楽しみにしていた新聞小説だっただけあり、ページをめくるのももどかしいくらい夢中になった。明治文学を読むのはおそらく初めてだ。続けて、蘆花の暮らしぶりをつづった「みみずのたわごと」に進んでいる。蘆花の自邸であった恒春園を観てきたばかりなので、文中の描写をリアルに思い描いて読み進めている。
今後もライフワークとして作家、芸術家居宅探訪を楽しみたい。