在宅勤務でもお弁当

コロナ禍がもたらしたもの、在宅で仕事をしたり、趣味のために学んだり、その準備をしたり、と家で大抵のことができるようになった。

気分転換にランチに出ることもあるけれど、大抵は娘のためのお弁当と一緒に、自分の分も詰めてしまう。午前中にある程度作業に目処がついている時は、ご苦労さま気分も多少はあって、ランチに出るのも良い。そのまま、午後の活動に出発もしやすい。

作業が軌道に乗っている時や、午後にも作業や仕事が長引きそうな時、私はそこでランチを作り始める気が起きず、適当なもので済ませてしまい、なんだか物足りない感じがして、作業効率が落ちてしまうのだ。さっと取り出してパッと済ませても、それなりに充実感があって、お弁当は自分に良いことをした気になるからおすすめ。最近のランチは高いし。

かのブラームスは、公職を退くと、朝は早朝五時位から創作に入って、午前中それに没頭し、午後はゆっくりランチしてから、散歩や図書館など、充電に充てていたとか。理想的だ。朝食抜きは出来ないし、朝の家事もあるから真似するのは無理だが、仕事や作業は午前中に集中して、午後は気の向くままに過ごせたら。こんな一日の使い方って中年から老年期の特典だと思う。午前は充実の個人作業、午後は社交や充電。人生の秋はそんなふうに過ごしたい。

在宅勤務でもお弁当

コロナ禍がもたらしたもの、在宅で仕事をしたり、趣味のために学んだり、その準備をしたり、と家で大抵のことができるようになった。

気分転換にランチに出ることもあるけれど、大抵は娘のためのお弁当と一緒に、自分の分も詰めてしまう。午前中にある程度作業に目処がついている時は、ご苦労さま気分も多少はあって、ランチに出るのも良い。そのまま、午後の活動に出発もしやすい。

作業が軌道に乗っている時、けれど午後にも作業や仕事が長引きそうな時、私はそこでランチを作り始める気が起きず、適当なもので済ませてしまい、なんだか物足りない感じがして、作

民主主義は地方の自由な自治から

最近のニュースで地方の首長の発言に注目している。

マイナンバー制度とは、人を12桁の個体識別番号で管理し、服従する人間を作る全体主義だ。牛は10桁。人間の牛化だ。」

     名古屋市 河村たかし市長

 

災害などの非常事態なら国は個別法に規定がなくても自治体に対策実施を指示できる、地方自治法の改正案について、世田谷区は新型コロナウイルスの流行初期、国が無症状の国民へのPCR検査に慎重だったのに対し、積極的な検査体制を確保した。そのことについて、

自治体が一歩先んじ、国も追認し、知恵を出し合ったのがコロナ対策だった。混乱時に国が常に正しい判断をするとは限らない。統治型の上位下達の国家、統治機構に変える考え方は危機的だ。」

     世田谷区 保坂展人区長

 

静岡県はリニア工事によって南アルプス上流でトンネルの建設時に発生する湧水により、60万人分の生活用水が減る問題について、全量を戻すよう水道局やJRに注文を付けてきた。希少動物の保全についても同様に言及、「南アルプスの自然を守れるか、水資源を確保できるかずっとやってきた。水の問題は取り返しがつかない。」

     静岡県 川勝平太知事

川勝知事は差別発言で辞職したが、ことリニアに関しては岸田首相と自民党が「国家的プロジェクト」と半ば強引に進める中、建設地の住民の利害を真剣に代弁し、地方自治の独立性を主張した、真っ当な采配であったと思う。

沖縄の辺野古基地移設問題についても、玉城デニー知事が再三にわたって、沖縄県民の意思を無視する中央のやり方に、県民の意思を尊重するよう、正統な主張を繰り返しているが、地方自治体の首長が県民にとって不利益になる国策に、断固反対の意見を発しなくなれば、国全体が均一化し、地方から異論が言えない国になる。それはとりもなおさず、民主主義が消滅するという事だ。

 

地方自治体の首長は上記三氏のように、今後も遠慮なく国の愚策に意見をするべきだ。国は中央が作るものではなく、地方自治の集まりが国を形成しているのだという見方を国民が共有すべきだ。

第8回横浜トリエンナーレを観にみなとみらいへ

久しぶりの現代アート鑑賞。

現代アートが必然的にもつ「現代社会性」とでも言おうか、心が揺さぶられる作品が多かった。

中でも一押しは映像作品。社会主義下のハンガリーで、とある健康な青年が日課筋肉トレーニングに精を出すシーンから始まる。次第に哲学書の音読をしながら思索を深め、合間に青年らしい健康的な食欲のままに食事をとる場面が挟まれる。さらに思考は深みを増し、彼は落ち着きをなくしてゆく。そしてついにどこかで拾ってきたぼろぼろの「宝物」のぬいぐるみを抱きしめて、子供のように泣き始める。それは彼にとって「ライナスの毛布」。

理性で自分を社会の枠に、思想、あるいは宗教の枠にはめて、普段人は生きて行くけれど、本質は答えのない底なしの不安とともにある。汚れて傷ついた可哀想なぬいぐるみは、壮健そうにしか見えない若く健康な彼の、一番柔らかい深層にある姿なのだ、とこの映像は雄弁に語っている。

自分が表現したいものや事が、形になって見る人の心を揺さぶるものが芸術だ、といたく感動した。トリエンナーレの鑑賞という刺激が心地よい一日だった。

 

芸術家居宅探訪「徳富盧花」

画家や文学者などの住居後を訪ねるのが大好きだ。作家本人の作品を見るのも好きだが、彼らがどんな空間で作品を創っていたのかを見るのは誠に興味深い。使っていた道具類、絵の具、アトリエ。生活の場や、時には庭なども、往年の作家がただずんでいるように感じられて、時空を超えた想像の旅に誘われてしまうのだ。芸術家以外にも、歴史人物の邸宅跡なども、本来同時代を生きていたらお招きにあずかることはないから、豪華なインテリアや歴史的装飾を見せてもらえると、とても得をした気分に浸れる。住まいや建築に興味があるからでもある。作品、作品を生み出した芸術家の息吹、建築そのもの、という様々な興味を一度に満足させてくれるのが「芸術家居宅探訪」なのだ。どんな有名人であっても、何人も、まずは住まいがあって、そこを拠点としてしっかりと生きていたのだ、という原点を感じられる。さあ、自分も地に足をつけて、これから我が家に帰り、日々の暮らしを創造的に暮らそう、と励まされる。

さて、これままで訪れてきた住居を、記録していなくて残念なのだが、記憶を頼りに上げてみよう。

⭐︎志賀直哉旧居(奈良市

narashikanko.or.jp

⭐︎新宿区立 林芙美子記念館 -新宿歴史博物館

⭐︎徳富蘆花記念文学館(世田谷区)

⭐︎岡本太郎記念館

taro-okamoto.or.jp

⭐︎佐伯祐三アトリエ記念館

 

www.regasu-shinjuku.or.jp

⭐︎中村彝アトリエ記念館

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/tsune/40357/

⭐︎堺屋太一氏事務所、奥様の池田史子氏作品

aizumikan.com

⭐︎山本有三記念館

⭐︎吉川英治記念館

⭐︎太田黒元雄邸

hakone-ueki.com

以上は今まで訪ねた箇所の一部だ。

作家や芸術家の自邸跡を訪ねると、絵を描く技法の参考になるなどとは恐れ多いが、マンネリ化した我が筆、我が意欲に火をつけてもらう事ができる。また、代表作を読んだりすると滅法楽しい。今は蘆花恒春園に行った影響で代表作の「不如帰」を読み終わり、候文の難しさに初めて触れながらも、同時代の人が楽しみにしていた新聞小説だっただけあり、ページをめくるのももどかしいくらい夢中になった。明治文学を読むのはおそらく初めてだ。続けて、蘆花の暮らしぶりをつづった「みみずのたわごと」に進んでいる。蘆花の自邸であった恒春園を観てきたばかりなので、文中の描写をリアルに思い描いて読み進めている。

今後もライフワークとして作家、芸術家居宅探訪を楽しみたい。

 

 

 

今週のお題「2024年にやりたいこと」

 

コロナ禍で得たもの失ったもの、たくさんある。

「人類を過大評価しないこと」はこの禍が私に教えてくれた、

大事なことの一つだ。

よく言われることだが、コロナウイルスは人類への自然からの警告、もっとはっきり

言えば「仕返し」ではなかったか。

小さい存在である自分。何かをやり遂げるとか成し遂げられないとかの目標達成の有無より大事なのは、

今日一日を丁寧に生きること。

リタイア生活に入り、思索を深めることが多くなった。

絵を描き音楽をし文を書く。そこに目標は不必要。

その時自分が画家で、音楽家で、作家であればそれで良い。

自分が私にとって、私が自分にとって、最高の友人であるとの結論が日々深くなってきた。

この「私」と「自分」はどう違うのだろうか、その違いが知りたい。

「わかる」ということほど強いことはない。自らの中でどこかで線を引き

納得する、ことほど強いことはないのだから。

 

子育て支援「誰でも通園」モデル事業

子育て世帯を支援するため、生後6カ月から2歳の子供ならだれでも定期的に保育施設を利用できることを目指す「誰でも通園」モデル事業がはじまるそうだ。子育て、介護を振り返ると、育ててている人、介護している人の心身のサポートが、回りまわってされる側の利益につながると実感する。子育て、介護に「かかりきり」と言う状態は何としても避けた方が良い。子育て、介護する側の役割は「それだけ」になってしまうと辛い。「する側」自身のサポートこそ、「される側」と同じくらいケアされるほうが良い。なぜなら、「する側」だって一社会人であるのに、子育て、介護中になると一気に母であること(父であること)や娘であること(息子であること)ばかりが強調されすぎてしまうからだ。

ただ、8割以上の自治体が職員の確保と職員の負担増を上げていて、つまり予算をつけて人員を確保しなくてはならないわけだが、昨今の物価高に、たいした対策も出来ないようなこの国で、子育て、介護にこれ以上予算をつけるのか疑問だ。そうしている間にも子供達は育ち、今介護されているお年寄りも不便な人員配置に泣き寝入りするしかない。

子供も親も「国のもの」ではなく「私達の家族」であるから、全てを公的補助で面倒見て欲しいと思っている人ばかりではなく、また、現実的にはこの少子高齢社会で、全てを公的サービスにゆだねるのは無理な相談と思う。ここで誤解があってはいけないが、私は菅元首相の「自助、共助、公助」発言の自助を過度に強調するものではない。子育て、介護している段階でもう自助は十分にやっているはず。共助と公助のミックスが大事だと思うのだ。

この度の「だれでも通園モデル」の職員を満足いく人数にするのを待つのではなく、子育てする人が自らの労働力を「色んな子供達をまとめて見る」施設に我が子を預けながら当番制で通ってお手伝いするような、ゆるいシステムにできないか。決まった時間を全く預けて仕事をするような家庭は今までのような保育園事業の守備範囲。一方、育児休業中であるとか、ちょっと子育てを一人で抱えるより、皆で育てたいと思う人は、保育園の一室に正規の職員と共に当番制で通って、我が子を見守りつつよその子も育てる。じっと二人でいるのは辛くても、よそのお子さんと一緒にいる我が子の姿を目で追いつつ、別の一面を見るのは楽しいものだ。かわいい時期を全く離れていたいと思う人ばかりではなく、ちょっと息抜きして我が子を他人の中で客観視したり、当番でない日は一日預けて、用事を片付けたり社会人としての「私」に戻ったりできるシステムと考えたらどうだろう。保育料の支払いを自らの労働力で相殺するようなシステム。なんでもお金と予算で解決しようとするには限界があるのが現実だと思う。

まったく同じことが介護にも言える。お世話になっている施設やデイサービスに、シーツを替えにいったり、食事介助の手つだいをしたり、傾聴にいったりという、作業に軽重はあるが、家族がお世話になっている場所で自らも「働く」。まったくお任せしようと思っていたら、今後増え続ける介護ニーズにいつまでも人手が追いつかない。

無論いま述べた方法は、福祉、介護、子育て、医療の仕事に対する対価を世にはびこるブルシットジョブや「いらないものを作って無理やり売る」底なしの欲望刺激職種より高額にすれば、もっと大事な仕事に人が自然に流れて、問題の多くが解決していくと思うのだが。

一般の人が専門職である子育て、介護に資格もなく手を出す事への懸念、異論もあるかとは思う。まったく専門職員が配置されないのは問題だが、事前に研修制度をクリアするとか、もっと言えば義務襄育の段階で、育児、介護、それと農業も、つまり「生きて行くためのスキル」を学ぶ時間をとるなどの改革をすべきだ。何かと言えば英語教育、IT教育とかまびすしいが、それは向き不向きや興味に関わらず、全員に必要?公教育に民間が介入して、一儲けするための「作られた必要」に見えるのですけど。