国葬の検証、真面目にやりなさいね。

憲法審査会で「国葬の検証」が行われていると聞く。

だがしかし、野党第一党の立憲は「誰を国葬とするのかの基準を明確にする」ことを求めているそうな。

やる気あるのかなぁ、ないのでしょうね。ピントずれているのを知っていながら、

そんなことを論点にしているのだとしたら、岸田首相が「ほら、ちゃんと検証してるでしょう」というやった感演出に喜んで加担しているだけ。

国民は、国民の過半数が反対していたのに、なぜ国葬を強行したのかの議論を期待しているのです。

名古屋学院大学の飯島氏「国葬憲法上問題だと言う人は、そもそも国葬検証の場に呼ばれることはない。」#東京新聞

国葬は故人を特別扱いして人を差別するもので、自由と平等と国民主権をうたう憲法に反する」#東京新聞 

聞いていることに答えない、問うているのに勝手に論点をずらす、望んでいない事は全力で進める、やって欲しい事は絶対やらない。

反抗期の中学生か?日本。

 

母親業卒業

あさのあつこさんの「彼女の物語」の一節に我に返る。
若いころ、自分を生きていなかったなあ、無理をしていたなあ。
自分をつくっていたなあ。
自分で立って歩くことを諦めてしまっていたなあ。

沢山の情報があふれる中、
自分が自分でいること、
自分を肯定することは難しい。

様々な選択肢があるように見えても、自分にすべてそれらが
許されているわけではないから。

あの時あんな風にしていたら。
あんなこともしたかった。

時代もあるだろう。
ああ、最初から暗黙の決められたコースがあったのだな、
悔しいけれど男性社会の相手探し、程度の扱いに
安住していた。
自由になる為には、
それが本当の自由でなかったことに今頃気づいたけれど、、
自由になるためには、その流れに乗るのが当たり前だった。
他の流れを作る勇気も才覚もなかった。

仕事とタブレットがあれば、
好きな場所へ飛び出して、
自由に自分を生きられる子供たちが
まぶしい。
若いころ一人になって自身の才覚で生きる事は、辛くても
自身を磨く最高の方法。人生の操縦桿は若いころに自分で握ることを
覚えたほうがいい。
そういう自由を満喫できるように、
無意識に育ててきたのは、他でもないこの私か。

この程度の自分が何とか子育てを終えられて
むしろ良かった。
もう小さい親の影響などより、、
沢山の他人や自分が選んだ場所での刺激や影響を受けて
それらにさらに成長させてもらった方が良い。

子育ては一時、天から与えられた使命。。
短い間、不完全な私に子育てさせてもらいありがとう。
後は自分などよりはるかに多様な世界に刺激されて成長するのが本来あるべきこと。
我が子とはいえ、別の人生を生きる、最も大事な他人になったのだ。

大切な他人、つまり別の人格をもつ大人。

自分を取り戻そう。大切な家族と出会えたことに感謝しつつも、
焦らずに一人にかえってみよう。
丁寧に物事を考えて、自分を相棒に生きてゆく。

 

コロナで心配なフレイル

コロナ人災(と私は呼んでいます)が一年を過ぎ、一回目の接種は終わりましたが、今後以前のような活動を再開できるのはいつになるのか見通せない中で、足腰の筋力低下、意欲の減退など、要介護状態ではないけれど持病と事故で様々な心配がある両親の体力低下が心配です。他人とおしゃべりする、近所を歩く、などフレイルを防ぐ提案はされていますが、痛いところがあったり、体が思う様にならないと難しい事も多いです。これはすべて他人事ではなく、わが身の問題でもある。いまは少し若いだけ。

そんな中、昨日の東京新聞で二つの記事。

一つ目「高齢の親とは一日一回5分でもオンラインで会話をしよう。」毎日電話はしています。おそらく15年近く続いています。今後は顔見せしておしゃべりの回数を増やしたい。

二つ目「老いとは好きな時に好きなところへ移動できなくなること。だがそういう環境に追い込んだのはその方が便利だからと暮らしの環境を変え、近くの商店をなくして大型店に車で行くしかないような生活に健常者が改悪したから。」車社会が進んでいます。商店街で何でもそろう時代はとうの昔。しかも生き残っている商店街は相当に便利な駅周辺のみで、住宅街にある小さな商店街などは殆ど壊滅状態です。こういうところこそ高齢者が何とか歩いてその日に必要なものを揃えて、ちょっとしたおしゃべりをする大切な場所でした。車の会社は人が壮年の時までは魅力的な新しい車を売り、乗る方も便利なその道具で苦も無く行きたいところに自由に移動する便利を得ます。でも一方で人は老いる。必ず免許を返納する時期が来ます。長く免許を持ち続ける人も中にはいますが、おそらく75歳を過ぎると様々なリスクが増えるのではないのでしょうか。その後は?ハタと気づくのです。車がないと自由がない生活であることに。車は便利なもの、こと、をすべて集約しにかかります。雑多な便利さを一か所に集めてしまうのです。しかも車を集めると人も集まるし、駐車場も必要。大きな場所がいります。ヒューマンスケールの路地裏は役に立ちません。でも年をとったら近くの便利、が何よりなのです。車の会社は車を売っているだけかもしれませんが、結果として車社会を作り、壮年期を過ぎた人々から自由を奪っています。かつて車を買ってくれたお客様をある時期が来たら、ほうっておいている、という事になります。ぜひかつてのユーザーにお礼の意味を込めて、車に乗れなくなった人々を見捨てないで欲しいのです。車を持つことで夢が実現すると思って車を買ったユーザーが、いつか車を手放した時あっという間に寂しい生活になってしまう事に車の会社は少なからず責任がある。車があった時にしていたことが出来るように、街の御用聞きのような車を不自由している人にかつてのユーザーの別なく、差し向けて欲しいです。ましてやこのコロナ禍、ワクチン接種会場への足はおろか、一年以上通院、買い物、趣味へのアクセスが不都合を極めています。1000人以上の大企業社員への優先接種が決まるようですが、それをするなら、まず足の便利が悪い地区に、貴方の会社の車を出してあげて下さい、と言いたい。車の会社は乗れる年齢層の人だけがお客様で、免許返納したらはいさようなら、とするなら、もう車を売るのはやめて、街に路地裏が復活するような事業に転換してください。遠くに移動する道路より歩道と電動三輪車がゆったり走れる道路の整備、あちこちに人が集える小さい場所が点在する社会の実現。こちらの方が幸せです。車社会による集約化が進みすぎたから、ワクチン接種も「大規模接種会場」まで最寄りのまでタクシー、その後地下鉄を乗り継いで、階段を上って、面倒をかけて出かけてゆかなくてはならなくなったのです。ひとは車が足なのではなくて、自分の脚が足です。車さえあれば、車がなくては、と車社会をこれ以上進めるのはやめましょうよ。エコカーいらない。車の会社には車に乗らなくてもいい街を作る事業を始めてほしいです。それはほかならぬ車の会社、あなた自身のためです。

男女差別は戦争への道

東大学長と理事8人合計9人の執行部の内、5人が女性となり、国立大で執行部の過半数を女性が占めるのはめずらしいそうだ。

また、大磯町議会も2003年7月に全国で初めて、男女同数の議員比率になってからその傾向が定着しているという記事を読む。

ところで、男女不平等な社会は誰にとって都合が良いのだろうか。
ずっと男性にとって楽だから、男性が上に立って優越感を得たいから、などと考えてきた。偉人英人も男性ばかりだし、体力的な意味でも優位に立つから、重労働ではどうしても男性に分がある。
男性の方が偉いのだと言う”刷り込み”はなかなか手強い。

つまり、女性より男性の方が現代社会を生き抜くためには優れているかのように見えるから、女性はきっと下に置かれていたのだろうし、腹が立ってもなんとなく理不尽でも、最終的には突き詰めて考える事はやめていた。考えていると前に進めない。解決するにはあまりに社会の慣習が鉄壁過ぎる。

男性が作った社会が男性にとって生きやすいのは当たり前だし、
男性中心の社会運営で、今地球規模で経済や環境が破綻寸前になっているのに。

将来の夢を語ったら、”大変だよ、女の子はかわいい嫁さんがいいよ”と教師に言われた中学生の時、
就職率がいいから四年制大学より短大がいいよ、と言われた時、
仕事していてもかわいい女性でいる事を強要されたとき、
男性からのたばこ買い指示、社内旅行でのセクハラ、仕事で頑張ると上司にいい気になるなとパワハラされた時、
結婚したら会社を辞めるのが当然という風潮にあらがえなかったとき、
結婚して名前を失った時、
貴方は○○家の人間でしょう(実家より婚家が優先でしょう)と当然かのように言われた時、
お嫁にいったからあちらの人ね、言われた時、
夫の実家では夫はお客なのに、私は下働きで、逆はない事をかみしめた時、
「男の人が(自分の息子の事)が働きやすいようにお願いしますね。」と言われた時、
やっと見つけた再就職先で働くこと「仕事なんて」と言われた時、

様々疑問に思っていたし、自分なりに障壁を取り除いて来たけれど、その都度、
私のほうがわがままな事をしているのだと、罪悪感が付きまとってきた。

ここへきて時代の変化を感じる、
我がままではなくて当然の疑問らしいぞ、と。

なぜ夫は夫の実家でお皿を洗わなくていいのか?誰か明確に答えられるか。
「そういう事になっているんだからあたりまえでしょ(聞くまでもない事)」という社会通念に、
再度それはおかしい、きちんと理由を聞きたいと思う。明確な理由を聞く権利をなぜ放棄していたのだろう。
自分にとって、いちいち疑問を投げかける事が損だったからだろう。

だけれど、冒頭の、男性のほうが偉いからだという理由は男女差別で、それは人権の侵害だからと明確に否定できる時代になってきた。これは大きい。
されている差別を、あたり前な事だから受け入れない自分が悪い、と思うのと、
これは明確な差別だから、私は人格人権の侵害を受けているのだと正しく認識出来ているのは、現状は少しも変っていなくても、自己否定しなくて済む分だけ、目の前が開ける感じがする。

そして冒頭の、
男女不平等な日常は誰にとって都合が良いのだろうか。本当に男性にだけ都合がいいから、女性は下に置かれているのだろうか、と言う疑問に戻る。
なぜ差別を我慢したのだろう。差別を放置して従うことは誰にとって都合が良いのだろう。
女性の方がなぜ”下”なのだろうか。その理不尽さを口にすると、ともすれば”嫁姑問題”などに矮小化されて、差別の元になっている人勧侵害はそのままにされ、根本的な問題が見えなくされてきたのではないか。

これは嫁姑問題ではないと気づく。もっと危険なことを成し遂げようとしたい、権力者にとって都合がいい”慣習”と見せかけた”飼いならし”だ。
男女差別は人間に優越の順位をつけて人を要不要に分ける最初のステップだ。それは障害者差別、外国人差別、その他様々な人の順位付けよりも悪行がばれにくい。女性を下に置くことは”慣習”として浸透させやすいから。この壁を崩せないと他の差別もなくならない。結果として人々は
政府に都合の良いように順位付けされる。

何の都合か?軍事国家を作る都合だ。軍隊は一人の権力者を頂点とする階級社会だから、いちいち下剋上が起こる平等な組織は都合が悪い。

女性を家の中の階級社会で下に置いて、当然のように他の家族も一番元気な男性を頂点として順位付けをし、
最小の軍隊組織を作らせてそれが集まって国が成り立っていた時代に太平洋戦争は起きた。

男女差別に異を唱えることは、変わったことでも我がままでもない。権力者の暴走を止め、命を守るために男女問わず、市民に課せられた責務だと思う。国によって誘導される間違った慣習を見抜かないと、オオカミについていく従順な羊の群れになってしまい、気が付いたときにはオオカミは牙をむき、男女の差なく人は要不要のふるいにかけられる、暗黒国家になってしまう事だろう。

男女差別は人権侵害、戦争へと続く道。

何もかも投げ出したくなりそうになる一歩手前ですること→料理

こんな地震の巣窟国土に”永遠に消える事のない火”原発を何十基も抱える上に廃止できず、オリンピックのためにコロナ対策をしない政府なのに、支持率40%とか、国会は誰それがだれとご飯を食べてどっちが一万円払った、とか何とか。地球環境もやばい。今度はマイクロプラスチックが人類の脅威だそうですよ。人類がため込んだコンクリートと鉄とゴミの山は地質学で新たな地層をこしらえて、”人新世”という地球史を形成してしまうほど脅威なのだそうな。

もう私ごときにできることはないな、とふと嫌になって諦めてしまいそうになり、悲嘆に暮れてしまいそうになる。私個人ごときにやれることはないな、と呆然。

料理家、土井善晴氏「資本主義にある貨幣経済と言う合理主義では、料理はしなくていい、とうことになる。実際お金を出せば美味しいものは食べられる。いつのまにかお金を出す人が偉くなって、お金さえあれば何でもできるって。そんなことはない。」「食事を作ることは、地球環境を考え、いたわること、過剰な経済最優先を抑えること、自立すること、人間の創造の始まり」、

朝日新聞編集委員高橋純子氏「自分のため、家族のために食事を整え、栄養バランスを考え、どの器に盛ろうかと思案する、そんな日々の生活も実は政治とつながっていて、閉塞感で一杯の既存社会と言う大型客船にしがみつくのではない、船を飛び降りる準備運動をしているようなもの」「面倒でも、時間がかかっても自分の頭で考え、自分で選択することを諦めてはいけない」

アーチスト、坂口恭平氏「料理は共同体の始まりであり、料理は政治で政治は料理。あらゆる創造の源が料理であり、歓喜の源。」

料理。作り続けています。もう習慣。背中を押してもらい有難い。今日もキッチンにまずは立とう。そこがスタート、そこから考えよう。

台所の窓から何も見えないと思ってはいけない。あらゆることが見える。そう思い続けて30年過ぎて来た。僭越ですがやっとそんな思いを確信に替えてくれる著名人の声に出会う事ができるようになりました。

SDGsは百害あって一利なし

最近気になる記事が三つあります。

1つ、人類が「人新世」の時代に突入、

2つ、地球上の人工物と生物の総重量が並び、最多はコンクリートで人工物は年300トン増加、2021年中にも上回る可能性、

3つ、昨年12月に「労働者協同組合法」が成立し、欧米でも社会主義が望ましいと考える若者が増えている、と言う件。

27年前子供を授かって初めて生活者となってから、家庭の、台所の小さい窓から社会の変化を見てきました。バブルの好景気を経験し、いざ家庭に入って今でいうところの「ワンオペ」育児をやってみると会社と自宅との往復では見えなかった事に毎日気づくのです。

なぜ、家族そろって夕飯が食べられず、夫は夜中まで仕事をしているんだろうか。毎年のように夏が耐え難く暑くなるのは大丈夫なのだろうか。毎日普通に生きているだけで、行く末が心配になるほどのゴミが出るのはほおっておいていいのだろうか。過剰にもらうノベルティグッズやスーパーにあるプラスチック製品の山が見ていて気持ち悪い、身近に自然がなくなっていて、わざわざ車で子供を自然のある場所に連れ出したり、モールや遊戯施設でで時間を潰したりする子育てって何か歪んでいないだろうか、二言目には経済成長しないと食べていけないというけれど、本当だろうか。これ以上いらないものを作って、欲しくないものをいかにして買わせるか、の社会の仕組みを続けていていたら、どうなるのだろうか。と。

だから、住まいはなるべくエネルギーを使わない住宅にしたいと思い、合成洗剤を止めたり、添加物を避けて可能な限り手作りをしたり、自転車をつかって移動したりしてきました。ゴミのたい肥化、雨水の貯蔵、食品ロスは30年近くゼロ。

そんな涙ぐましい一市民の努力なんて吹き飛んでしまうほどのスピードで、経済回すという大義名分のもとに、人間までお金やモノに振り回され、追いかけられているような状態が加速しています。

日本の豊かさや暮らしやすさは戦後、資本主義と平和主義の下、親世代が一生懸命働いてきてくれたからだという認識があり、それを否定するという選択肢は考えてみたことがありませんでした。どうしても資本主義の否定は共産主義ではないかという固定観念も強固なものでした。

でもここにきて人類が出すゴミが人類史を書き換えてしまう可能性が出てきたのなら、限りある資源を食い尽くして箱やペットボトルに詰めて、売りつけられるなら地球の反対側までも配達するような仕組みはやめにしないといけない、ごく一部が一生のうちに使いきれない資産を持つなど、ばかげていて、つかえないならそれは価値がない、お金ですらないような極端な貧富の差を放置してはならないと思います。すべて行きすぎた資本主義が人類を危機に落としいれています。

はっきり言わなければならないのです。資本主義は悪、もうやめにしようと。

斎藤新平氏は言います。SDGsは経済成長とCO2削減の両立が可能かのように錯覚させる、百害あって一利なしの間違った提唱であると。エコバックを使えば、とりあえず良心が咎めず、なんとなく良い事をしている気になって、これまでの消費活動を続けていくことへの免罪符になってしまうということでしょう。

はっきり認識しましょう。SDGs程度では地球は救えない。やらないよりまし、程度の付け焼刃はかえって問題の解決から遠ざかり、事態を悪くすると。

近くの人と共に作り、ともに分かちあう社会に転換しなくては。それを共産主義と呼ぶのならそうなのでしょう。共産主義と言うと中国や旧ソ連のそれをどうしても結び付けてしまいがちですが、彼らのそれは単なる官僚支配、本当の共産主義ではなかったのだと言われます。

何が必要かを自ら考えて必要なだけを身近に必要な人と協力して創る社会は、必要か怪しい物をなんとなくその気にさせられて、次々に世界中から取り寄せて得た気になる、こんな社会とは見えてくる風景が違います。

前者は一日数時間の仕事を協力して行い、それこそ本当に手を使って作り上げ、夕方になったら家族で仲間で食事を囲める暮らしになることでしょう。

旅行もレジャーも一瞬の享楽もなくなれと言ってはいないけれど、日々の暮らしの穏やかさあってこそ。旅行やレジャーまで、まるで欲しくないのに経済を回して資本家に利益を生ませるために、「行かされて」いませんか。

資本主義に変わる仕組みがないのだろうか、だれか碩学の徒が豊かさは資本主義の産物であるとの資本家の流言に異をとなえて、まったく新しい世の中の仕組みを創出してくれないだろうかとずっとこの20年ほど考え続けてきました。

きっとすでに沢山の人々がその答えを示してくれていたのでしょう。でもなかなか庶民にまでは響いてこなかっただけかもしれません。けれど大震災、日本や世界の腐敗政治、そしてコロナ災禍があぶり出した社会の負の仕組みを見るにつけ、市民にも資本主義を疑わなくてはならないと、気づかせ始めているのかもしれません。

共に作る社会の実現に向かってできる最初の一歩とは。そこで冒頭の「労働者協同組合法」の成立に一筋の光明を見たのです。株式市場が三万円を超えても儲けを得ているのは市場の7割をしめる外国人投資家の売買益であり、本来の堅実な企業支援の見返りである配当益は少ないと言います。それはおかしい。のばしたいと思う企業を支援するためにその会社の株式を買うのが本来の株式投資ですから。配当はそのお礼、確かにその企業が社会の役に立っていますという報告書です。一方売買益で儲けを得るとは、つまりその会社を見限って資金を下げた時にしか発生しないわけで、そんな市場が健全なはずはなく、必ず暴落することでしょう。

労働者協同組合法によると、働く人はそれぞれが、いわば益を享受できる出資者であり、直接経営に参画できる社長であり、額に汗して働き、必要な物を生み出し、必要な人を直接支援する労働者である仕組みです。社長=労働者=投資家。いいんじゃあないでしょうか。単純な仕組みで。わかりやすい。子供のころからやってきたいわばお店屋さん。子どもの頃にお世話になって、親と一緒に行って楽しかった思い出のある個人商店の賑わいを感じさせます。なんでも揃い過ぎて、選び疲れてしまい、棚の前で途方に暮れてしまうような「モール」や「センター」では幸福感は得られないのですよ。

私達はたくさんの中から選ぶことが楽しい事、便利そうなものを買ってくることが幸福に暮らすことだと思い込まされているだけです。本当は必要な物を自分で創り出せることが究極の幸福。お百姓さん的生き方です。現代の複雑化した社会では、一人ですべて生活に必要な物を賄うのは難しい。でも可能な技を持ち寄って分業すればきっとできます。隣の人、周りの人は皆本当にそれぞれが、多才で多識なのですから。

スマートフォンが示す商品群より隣の人と共に必要な物を作り出す社会の一歩を踏み出し、資本主義に別れを告げるときが来たのです。

もうやめよう、オリンピック 一から出直そう、日本

日付が変わる前に福島沖で大きい地震がありました。暗闇で思った事。まず被災地福島の事。そして、もういい加減やめようよ、やめさせましょうよ、きっとメダル合戦も悪いけどぼろぼろ、こんな手垢まみれのオリンピック。だって80%の人が反対しているのでしょう?

あんなガタガタの組織のトップが、しかもコロナ災禍の最中に、オリンピックをしたらどんなことになるか火を見るよりも明らか。真面目で勤勉、時間に正確で丁寧な仕事をする日本の良さは、失われました。先人達にはその記憶も技も残っているかもしれませんが、沢山の立派な先人たちは「老害」などど言われる多くの無能政治家と一緒くたにされ、ものを言っても聴いてもらえず邪魔にされるだけとなりました。

夏の暑さを思い出しましょう。そもそも、あの暑さの中、オリンピックなど、してはいけない。熱中症でバタバタと人が倒れる事でしょう。加えてこのコロナ災禍。医療従事者はコロナへの対応で疲弊しきっています。その上、これからワクチン接種でもうひと踏ん張りしてもらわなくてはならないのです。昨年からテレワークも出来ず、ずっと働き詰めです。真夏くらい何とか少しでも休んでもらいましょうよ。涼しい部屋でおいしいものを食べて、家族と一緒に。加えて、遠方の家族にずっと会えていない、たくさんの人達も、必要な家族は夏くらいのんびりと会えるように、しっかり前後の検査を行える体制を作って移動できる体制にしましょうよ。

そして原発事故。私達は人類にとって最大の負の遺産を生み出し、以前の福島を失ってしまいました。悲しいですが福島県の一部はもう人が住めるようになることはないでしょう。国土の一部が永遠に失われてしまいました。そこを故郷としている人たちの胸の痛みはいかほどか。なぜ忘れるのでしょう。最初からオリンピックは反対です。

「東京」と名の付くオリンピックで次々に醜態を世界にさらして、これ以上東京の地名を汚すのもやめて欲しいです。

私達はこんな馬鹿じゃない、と言いたい。一緒にしないで、と。

私達日本人はもっと静かにしないと。SYAY HOME して気づいたことも沢山あるはずです。暇さえあれば買って、移動し旅行して、そんなにせかせかと生きる必要があるのか、と。次々に新しい事やモノを探さなくても、実は心豊かに暮らせるのではないのか、という事を。

沈思黙考の時間をもちましょうよ。もっと一人で、自分で、考える時間を持つ。その上で周りの人と語りあう。ささやきあう。

アマゾンで買わなくても日常に物は「アルゾン」です。欲しいと思ったものは、実は大体「ある」か、または「創り出せる」。

なぜ、コロナ災禍が起きて、広がり、私たちは今までの日常を手放しているのか、そこに人類のおごりがないか。コロナが収束した後も、「以前のような日常に戻りたい」と切望する日常に戻っていいのか。なぜ福島という日本人のふるさとは失われてしまったのか。なぜ、なぜかと探し、考える。

痛めつけれれている人々がいる脇でお祭りしていいのかを考えたいです。スマホもネットも便利なものはあっていいです。でも日本に少し前まではあった、日常を楽しみ、真面目に手を使って働き、近所の人と井戸端会議をして、足りないものは分け合い、陽が落ちたら家族で食事が囲めるような生活を良しとできるように、一から出直しましょうよ。

足りないのはオリンピックではない、未来へ迷惑をかけない穏やかな日常です。