コロナで心配なフレイル

コロナ人災(と私は呼んでいます)が一年を過ぎ、一回目の接種は終わりましたが、今後以前のような活動を再開できるのはいつになるのか見通せない中で、足腰の筋力低下、意欲の減退など、要介護状態ではないけれど持病と事故で様々な心配がある両親の体力低下が心配です。他人とおしゃべりする、近所を歩く、などフレイルを防ぐ提案はされていますが、痛いところがあったり、体が思う様にならないと難しい事も多いです。これはすべて他人事ではなく、わが身の問題でもある。いまは少し若いだけ。

そんな中、昨日の東京新聞で二つの記事。

一つ目「高齢の親とは一日一回5分でもオンラインで会話をしよう。」毎日電話はしています。おそらく15年近く続いています。今後は顔見せしておしゃべりの回数を増やしたい。

二つ目「老いとは好きな時に好きなところへ移動できなくなること。だがそういう環境に追い込んだのはその方が便利だからと暮らしの環境を変え、近くの商店をなくして大型店に車で行くしかないような生活に健常者が改悪したから。」車社会が進んでいます。商店街で何でもそろう時代はとうの昔。しかも生き残っている商店街は相当に便利な駅周辺のみで、住宅街にある小さな商店街などは殆ど壊滅状態です。こういうところこそ高齢者が何とか歩いてその日に必要なものを揃えて、ちょっとしたおしゃべりをする大切な場所でした。車の会社は人が壮年の時までは魅力的な新しい車を売り、乗る方も便利なその道具で苦も無く行きたいところに自由に移動する便利を得ます。でも一方で人は老いる。必ず免許を返納する時期が来ます。長く免許を持ち続ける人も中にはいますが、おそらく75歳を過ぎると様々なリスクが増えるのではないのでしょうか。その後は?ハタと気づくのです。車がないと自由がない生活であることに。車は便利なもの、こと、をすべて集約しにかかります。雑多な便利さを一か所に集めてしまうのです。しかも車を集めると人も集まるし、駐車場も必要。大きな場所がいります。ヒューマンスケールの路地裏は役に立ちません。でも年をとったら近くの便利、が何よりなのです。車の会社は車を売っているだけかもしれませんが、結果として車社会を作り、壮年期を過ぎた人々から自由を奪っています。かつて車を買ってくれたお客様をある時期が来たら、ほうっておいている、という事になります。ぜひかつてのユーザーにお礼の意味を込めて、車に乗れなくなった人々を見捨てないで欲しいのです。車を持つことで夢が実現すると思って車を買ったユーザーが、いつか車を手放した時あっという間に寂しい生活になってしまう事に車の会社は少なからず責任がある。車があった時にしていたことが出来るように、街の御用聞きのような車を不自由している人にかつてのユーザーの別なく、差し向けて欲しいです。ましてやこのコロナ禍、ワクチン接種会場への足はおろか、一年以上通院、買い物、趣味へのアクセスが不都合を極めています。1000人以上の大企業社員への優先接種が決まるようですが、それをするなら、まず足の便利が悪い地区に、貴方の会社の車を出してあげて下さい、と言いたい。車の会社は乗れる年齢層の人だけがお客様で、免許返納したらはいさようなら、とするなら、もう車を売るのはやめて、街に路地裏が復活するような事業に転換してください。遠くに移動する道路より歩道と電動三輪車がゆったり走れる道路の整備、あちこちに人が集える小さい場所が点在する社会の実現。こちらの方が幸せです。車社会による集約化が進みすぎたから、ワクチン接種も「大規模接種会場」まで最寄りのまでタクシー、その後地下鉄を乗り継いで、階段を上って、面倒をかけて出かけてゆかなくてはならなくなったのです。ひとは車が足なのではなくて、自分の脚が足です。車さえあれば、車がなくては、と車社会をこれ以上進めるのはやめましょうよ。エコカーいらない。車の会社には車に乗らなくてもいい街を作る事業を始めてほしいです。それはほかならぬ車の会社、あなた自身のためです。