SDGsは百害あって一利なし

最近気になる記事が三つあります。

1つ、人類が「人新世」の時代に突入、

2つ、地球上の人工物と生物の総重量が並び、最多はコンクリートで人工物は年300トン増加、2021年中にも上回る可能性、

3つ、昨年12月に「労働者協同組合法」が成立し、欧米でも社会主義が望ましいと考える若者が増えている、と言う件。

27年前子供を授かって初めて生活者となってから、家庭の、台所の小さい窓から社会の変化を見てきました。バブルの好景気を経験し、いざ家庭に入って今でいうところの「ワンオペ」育児をやってみると会社と自宅との往復では見えなかった事に毎日気づくのです。

なぜ、家族そろって夕飯が食べられず、夫は夜中まで仕事をしているんだろうか。毎年のように夏が耐え難く暑くなるのは大丈夫なのだろうか。毎日普通に生きているだけで、行く末が心配になるほどのゴミが出るのはほおっておいていいのだろうか。過剰にもらうノベルティグッズやスーパーにあるプラスチック製品の山が見ていて気持ち悪い、身近に自然がなくなっていて、わざわざ車で子供を自然のある場所に連れ出したり、モールや遊戯施設でで時間を潰したりする子育てって何か歪んでいないだろうか、二言目には経済成長しないと食べていけないというけれど、本当だろうか。これ以上いらないものを作って、欲しくないものをいかにして買わせるか、の社会の仕組みを続けていていたら、どうなるのだろうか。と。

だから、住まいはなるべくエネルギーを使わない住宅にしたいと思い、合成洗剤を止めたり、添加物を避けて可能な限り手作りをしたり、自転車をつかって移動したりしてきました。ゴミのたい肥化、雨水の貯蔵、食品ロスは30年近くゼロ。

そんな涙ぐましい一市民の努力なんて吹き飛んでしまうほどのスピードで、経済回すという大義名分のもとに、人間までお金やモノに振り回され、追いかけられているような状態が加速しています。

日本の豊かさや暮らしやすさは戦後、資本主義と平和主義の下、親世代が一生懸命働いてきてくれたからだという認識があり、それを否定するという選択肢は考えてみたことがありませんでした。どうしても資本主義の否定は共産主義ではないかという固定観念も強固なものでした。

でもここにきて人類が出すゴミが人類史を書き換えてしまう可能性が出てきたのなら、限りある資源を食い尽くして箱やペットボトルに詰めて、売りつけられるなら地球の反対側までも配達するような仕組みはやめにしないといけない、ごく一部が一生のうちに使いきれない資産を持つなど、ばかげていて、つかえないならそれは価値がない、お金ですらないような極端な貧富の差を放置してはならないと思います。すべて行きすぎた資本主義が人類を危機に落としいれています。

はっきり言わなければならないのです。資本主義は悪、もうやめにしようと。

斎藤新平氏は言います。SDGsは経済成長とCO2削減の両立が可能かのように錯覚させる、百害あって一利なしの間違った提唱であると。エコバックを使えば、とりあえず良心が咎めず、なんとなく良い事をしている気になって、これまでの消費活動を続けていくことへの免罪符になってしまうということでしょう。

はっきり認識しましょう。SDGs程度では地球は救えない。やらないよりまし、程度の付け焼刃はかえって問題の解決から遠ざかり、事態を悪くすると。

近くの人と共に作り、ともに分かちあう社会に転換しなくては。それを共産主義と呼ぶのならそうなのでしょう。共産主義と言うと中国や旧ソ連のそれをどうしても結び付けてしまいがちですが、彼らのそれは単なる官僚支配、本当の共産主義ではなかったのだと言われます。

何が必要かを自ら考えて必要なだけを身近に必要な人と協力して創る社会は、必要か怪しい物をなんとなくその気にさせられて、次々に世界中から取り寄せて得た気になる、こんな社会とは見えてくる風景が違います。

前者は一日数時間の仕事を協力して行い、それこそ本当に手を使って作り上げ、夕方になったら家族で仲間で食事を囲める暮らしになることでしょう。

旅行もレジャーも一瞬の享楽もなくなれと言ってはいないけれど、日々の暮らしの穏やかさあってこそ。旅行やレジャーまで、まるで欲しくないのに経済を回して資本家に利益を生ませるために、「行かされて」いませんか。

資本主義に変わる仕組みがないのだろうか、だれか碩学の徒が豊かさは資本主義の産物であるとの資本家の流言に異をとなえて、まったく新しい世の中の仕組みを創出してくれないだろうかとずっとこの20年ほど考え続けてきました。

きっとすでに沢山の人々がその答えを示してくれていたのでしょう。でもなかなか庶民にまでは響いてこなかっただけかもしれません。けれど大震災、日本や世界の腐敗政治、そしてコロナ災禍があぶり出した社会の負の仕組みを見るにつけ、市民にも資本主義を疑わなくてはならないと、気づかせ始めているのかもしれません。

共に作る社会の実現に向かってできる最初の一歩とは。そこで冒頭の「労働者協同組合法」の成立に一筋の光明を見たのです。株式市場が三万円を超えても儲けを得ているのは市場の7割をしめる外国人投資家の売買益であり、本来の堅実な企業支援の見返りである配当益は少ないと言います。それはおかしい。のばしたいと思う企業を支援するためにその会社の株式を買うのが本来の株式投資ですから。配当はそのお礼、確かにその企業が社会の役に立っていますという報告書です。一方売買益で儲けを得るとは、つまりその会社を見限って資金を下げた時にしか発生しないわけで、そんな市場が健全なはずはなく、必ず暴落することでしょう。

労働者協同組合法によると、働く人はそれぞれが、いわば益を享受できる出資者であり、直接経営に参画できる社長であり、額に汗して働き、必要な物を生み出し、必要な人を直接支援する労働者である仕組みです。社長=労働者=投資家。いいんじゃあないでしょうか。単純な仕組みで。わかりやすい。子供のころからやってきたいわばお店屋さん。子どもの頃にお世話になって、親と一緒に行って楽しかった思い出のある個人商店の賑わいを感じさせます。なんでも揃い過ぎて、選び疲れてしまい、棚の前で途方に暮れてしまうような「モール」や「センター」では幸福感は得られないのですよ。

私達はたくさんの中から選ぶことが楽しい事、便利そうなものを買ってくることが幸福に暮らすことだと思い込まされているだけです。本当は必要な物を自分で創り出せることが究極の幸福。お百姓さん的生き方です。現代の複雑化した社会では、一人ですべて生活に必要な物を賄うのは難しい。でも可能な技を持ち寄って分業すればきっとできます。隣の人、周りの人は皆本当にそれぞれが、多才で多識なのですから。

スマートフォンが示す商品群より隣の人と共に必要な物を作り出す社会の一歩を踏み出し、資本主義に別れを告げるときが来たのです。