子育て支援「誰でも通園」モデル事業

子育て世帯を支援するため、生後6カ月から2歳の子供ならだれでも定期的に保育施設を利用できることを目指す「誰でも通園」モデル事業がはじまるそうだ。子育て、介護を振り返ると、育ててている人、介護している人の心身のサポートが、回りまわってされる側の利益につながると実感する。子育て、介護に「かかりきり」と言う状態は何としても避けた方が良い。子育て、介護する側の役割は「それだけ」になってしまうと辛い。「する側」自身のサポートこそ、「される側」と同じくらいケアされるほうが良い。なぜなら、「する側」だって一社会人であるのに、子育て、介護中になると一気に母であること(父であること)や娘であること(息子であること)ばかりが強調されすぎてしまうからだ。

ただ、8割以上の自治体が職員の確保と職員の負担増を上げていて、つまり予算をつけて人員を確保しなくてはならないわけだが、昨今の物価高に、たいした対策も出来ないようなこの国で、子育て、介護にこれ以上予算をつけるのか疑問だ。そうしている間にも子供達は育ち、今介護されているお年寄りも不便な人員配置に泣き寝入りするしかない。

子供も親も「国のもの」ではなく「私達の家族」であるから、全てを公的補助で面倒見て欲しいと思っている人ばかりではなく、また、現実的にはこの少子高齢社会で、全てを公的サービスにゆだねるのは無理な相談と思う。ここで誤解があってはいけないが、私は菅元首相の「自助、共助、公助」発言の自助を過度に強調するものではない。子育て、介護している段階でもう自助は十分にやっているはず。共助と公助のミックスが大事だと思うのだ。

この度の「だれでも通園モデル」の職員を満足いく人数にするのを待つのではなく、子育てする人が自らの労働力を「色んな子供達をまとめて見る」施設に我が子を預けながら当番制で通ってお手伝いするような、ゆるいシステムにできないか。決まった時間を全く預けて仕事をするような家庭は今までのような保育園事業の守備範囲。一方、育児休業中であるとか、ちょっと子育てを一人で抱えるより、皆で育てたいと思う人は、保育園の一室に正規の職員と共に当番制で通って、我が子を見守りつつよその子も育てる。じっと二人でいるのは辛くても、よそのお子さんと一緒にいる我が子の姿を目で追いつつ、別の一面を見るのは楽しいものだ。かわいい時期を全く離れていたいと思う人ばかりではなく、ちょっと息抜きして我が子を他人の中で客観視したり、当番でない日は一日預けて、用事を片付けたり社会人としての「私」に戻ったりできるシステムと考えたらどうだろう。保育料の支払いを自らの労働力で相殺するようなシステム。なんでもお金と予算で解決しようとするには限界があるのが現実だと思う。

まったく同じことが介護にも言える。お世話になっている施設やデイサービスに、シーツを替えにいったり、食事介助の手つだいをしたり、傾聴にいったりという、作業に軽重はあるが、家族がお世話になっている場所で自らも「働く」。まったくお任せしようと思っていたら、今後増え続ける介護ニーズにいつまでも人手が追いつかない。

無論いま述べた方法は、福祉、介護、子育て、医療の仕事に対する対価を世にはびこるブルシットジョブや「いらないものを作って無理やり売る」底なしの欲望刺激職種より高額にすれば、もっと大事な仕事に人が自然に流れて、問題の多くが解決していくと思うのだが。

一般の人が専門職である子育て、介護に資格もなく手を出す事への懸念、異論もあるかとは思う。まったく専門職員が配置されないのは問題だが、事前に研修制度をクリアするとか、もっと言えば義務襄育の段階で、育児、介護、それと農業も、つまり「生きて行くためのスキル」を学ぶ時間をとるなどの改革をすべきだ。何かと言えば英語教育、IT教育とかまびすしいが、それは向き不向きや興味に関わらず、全員に必要?公教育に民間が介入して、一儲けするための「作られた必要」に見えるのですけど。