「日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)」 と日本の危機

英語が大切、これからは英語の時代、と一体いつから日本人は言われてきたのだろうか。
少なくとも私の学生時代、もう40年前になるけれど、中学に入るときはそう言われていた記憶が濃厚にある。
私はそれを安易に信じ、騙されてしまった一人。

いつも疑問に思う。
皆が一定の英語力を身に着ける一方、日本語力は壊滅的になってしまったのではないかと。
これは、昨今の国のリーダーのスピーチを見ていれば説明は不要だ。日本語力の低下と考える力の低下、特に市民ひとりひとりに
思考を要求する民主主義力の低下は下降線をたどる一方だ。
だから、私はこれからは英語の時代、とか、英語を身につけなくては仕事にありつけないなどの言説にはいつも懐疑的だ。
英語を身につけるべく必死の努力をしても、気が付いたときには足元の自国である日本が、ガタガタになっていて、
英語どころか、日本語でもモノが言えない国になってしまっているのではないか、との危機感がある。

この著作のなかで筆者は
「日本が必要としているのは道を聞かれて英語で答えられるレベルの人材ではなく、世界に向かって一人の日本人として英語で意味のある発言ができる人材である」
と言っている。
英語のみならず、すべての科目で教育の機会の平等は担保しなくてはならないが、全国民一律に高度な英語が必要ですか。
旅行に行ったときに便利だから、とか
オリンピックでボランティア活動がしたいから、とか
趣味のレベルで英語が必要なら、何年も学校で英語の時間枠を確保する必要があるのだろうか。

ビジネスで必要だから、という説明を英語学習の動機付けにするのも腑に落ちない。
損得の攻防戦であるビジネスの場で、自らが損をしないような仕事をするための英語力を身に着けることは、
日本人には並大抵のことではない、と筆者は述べている。
はっきり言ってしまえば全員に必要ない、選ばれた(あくまで英語を究める覚悟のある人と言う意味)
人にだけ必要であると、結論付けられている。

話はそれるけれど、日本史なども、重箱の隅をつつくような暗記問題を生徒に課す、日本史教育は意味がないだろうと思う。
それこそ本当に必要なのは、近代史を、なぜ戦争に日本が向ってしまい、負けてしまったかを、
一年間かけて、ディベートしたり作文を書かせたりして学んだ方ががよっぽど有益だと思うのに、それをしないのは、
国民が大切なことに目を向けるのを嫌がる政府の魂胆があるからだと疑ってしまう。

つまり、こんなに英語、英語というのは、市民が国語に目を向け、国語力をつけることを恐れる、政府の悪だくみがあるからなのではと最近は
つとに、そう思う。

政府が推し進めることってたいがい、国民に必ずしも必要のない事が多い。
原発、カジノ、マイナンバー、アベノマスク、消費税10%、そして極めつけはオリンピック。
それらは、今本当に必要ですか? 疑いましょう。まずは政府が押し売りしてくるすべてを。

英語より日本語、です。当たり前です。